変わっていくこと
私が育ったのは写真をよく撮る家だった。
物心が着く頃には写真は日常の一部になっていて私もシャッターが押せるようになると写ルンですやコンデジなどで家族や風景を撮って遊んでいた。
弟が生まれた年の誕生日に自分用のカメラを貰ったので何10枚何100枚の写真をとって弟の表情を全て収めようとした。
それは子どもが生まれた家庭では決して珍しいことではないのだけれど
11歳年の離れた弟に夢中だった私は弟が幼稚園に上がっても毎日写真を撮り続けた。
ある時弟の写真を見返していて
懐かしいという暖かな気持ちではないものが湧いて苦しくなってしまった。
いつまでも子ども、赤ちゃんのままでいてほしいという気持ちが先行し子どもの
目に見えてわかる成長が受け入れられなかったのだ。
これはまぎれもない支配欲だったけれど、もうそう思うようになってしまってからは変わってしまうことが受け入れられなくなった。
今思えば撮っていたのは見返すための写真ではなくて記録するための、留めるための写真だったのだろう。
その頃の私はとにかく変わってしまうことそして忘れてしまうということに
とてつもない恐怖を感じていた。
だから写真もあらゆる場面で撮るようになっていたし、
記録のための日記をつけ、録音までしていた。
ただいくら写真をとっても日記をつけても会話を残しても虚しさは変わらなかった。
多分いちばん留めたかったのは、日々の出来事ではなくて
その時その時の感情や感覚的なところだったのだと思う。
どうしたって人は変わっていくし、戻れない。
4年近く日記をつけて結局なんの意味もなかったのだということに気がついて全て辞めた。
留められないのなら今だけを見ておけばいい。変化が怖いなら昔のことは忘れてしまえばいい。比較さえしなければいつだって今が正しい。
今だけを考えるようになると杞憂しない分、身軽に動けたりする。
過去も未来も考えすぎると良いことはない、春が終わり夏が来て短い秋が去り気がついたら冬が来ているそれだけのことだ。
そういう当たり前のことがわかるようになってきたから変わっていくことは面白いと思う。